日本ハンセン病学会宛て申し入れ書(ハンセン病違憲国家賠償訴訟全国原告団協議会、同全国弁護団連絡会並びに全国ハンセン病療養所入所者協議会による)に対する調査報告
平成16年5月21日
日本ハンセン病学会
第77回総会会長 伊崎誠一
庶 務 幹 事 石井則久
1. 経過と申し入れ内容
第75回日本ハンセン病学会総会(2002年、平成14年)後の2002年5月23日に上記3団体から受領した申し入れ書は、学会誌(72巻1号に抄)に掲載したとおりである。なお、2002年4月9日に上記3団体から学会に対するほぼ同様の申入書が江川勝士会長のもとに提出された。学会では松尾庶務幹事および他の幹事を中心に2003年7月の総会まで、その後は学会内に回答書起草委員会(伊崎、石井、石橋、尾崎の各幹事、後藤、中嶋、畑野、松尾、牧野の各評議員の計9名)を設立し、可能な限り過去の記録や事実関係を調査し、現段階での調査結果を以下のようにまとめ、第77回日本ハンセン病学会総会(
2. 日本癩學會、日本らい学会、日本ハンセン病学会の目的
先ず、学会がいかなる目的で設立、運営されていたか、また国の機関等との関係などの歴史を記す。
現在学会事務局に保管されている資料で参考になるものは学会誌程度である。そのため、学会誌を中心に学会の歴史を記載する(1,2)。
日本癩學會(1927年秋創設_1976年)、日本らい学会(1976年_1996年)、日本ハンセン病学会(1996年_現在)の会則の主な項目を挙げる。
日本癩學會々則(1931年)(3)
目的:本会は癩に関する研究、会員相互の知識の交換、斯学の進歩発達を図るを以て目的とす。
事業:本会は前條の目的を達する為め左の事項を行ふ。
1954年4月の改正では(4)
目的:本会は、癩に関する研究、会員相互の知識の交換及び癩医学の進歩発達を図ることを目的とする。
さらに、1997年の改正では(5)
目的:本会は会員相互の知識交換によりハンセン病医学の進歩発達を図ることを目的とする。
となって現在に至っている。事業は1931年発表のものとほぼ同一の内容で、今日に至っている。
日本癩学会は第1回が1927年9月に開催された。以後、開催しない年(1928年、1945年、1946年)、年2回開催した年(1938年、1942年)があるものの、毎年開催されている。
学会誌「レプラ」は大阪帝国大学医学部皮膚科泌尿器科教室内(当時)の大阪皮膚病研究所から1930年に第1巻が発行された。その後1977年(第46巻)からは「日本らい学会雑誌」、1996年(第65巻)からは「日本ハンセン病学会雑誌」と名称変更がなされた。
初期の学会の雰囲気は1934年の雑誌にも記載があるように(6)、「討議、追加多く緊張した場面を多く、展開し、他の学会とは違った空気を醸し出され時間も夜になって辛と終った事であった。(中略)そもそも本剤にては金が有効なりとするや、或は大風子油が利くものなりや、更に演者は如何なる見解の下に癩治療を取扱ひ居るやなどの物凄い討論が小笠原氏に肉迫したが小笠原氏亦屈せず時には逆襲的態度に出で非常に緊張した場面を展開させれた。」。このように学会では激しい討論が繰り返されていた(7)。
一方学会誌においては、1945年頃までは学術論文の他に、雑報で療養所の現況なども掲載していた。1945年以後は主に研究論文や総会発表の内容を掲載していた。
ここで、学会として行政への働きかけについて述べる。公式な形での働きかけは以下の如くである(8)。
1932年:救癩施設に関する建議書 第5回日本癩学会から拓務大臣、朝鮮台湾両総督へ提出(9)
1936年:建国2,600年迄に癩患者1万人収容施設実現方陳情書 第8回日本癩学会会長 佐谷有吉から内務大臣後藤文夫へ陳情(10)
1936年:第3区府県立外島保養院復旧工事促進に関する陳情書 第8回日本癩学会会長 佐谷有吉から内務大臣後藤文夫へ陳情(11)
1939年:癩根絶促進に関する陳情事項 1.患者10,000人収容計画実現方の件、 2. 患者15,000人収容計画樹立方の件、 3. 公立癩療養所を速に国立に移管とするの件、 4. 特別患者収容施設設置方の件 第13回日本癩学会総会会長 中條資俊から 厚生大臣 廣瀬久忠へ陳情(12)
1941年:1.癩患者5,000名収容施設拡張の件、 2.傷痍軍人癩療養所建設の件 第15回日本癩学会会長 佐谷有吉から 厚生大臣 小泉親彦への建議(13)
1942年:癩専門学者南方派遣に関する請願書 第17回日本癩学会会長 光田健輔から 厚生大臣 小泉親彦への請願(14)
1947年:1.政府は速かに癩の一斉調査を実施されたい 2.癩の満床運動を促進されたい 3.癩療養所設備の内容を改善されたい 4.癩に対する国民啓蒙運動を積極的に実施されたい 以上4項目を日本癩学会の名に於いて厚生大臣に建議(15)
1995年:「らい予防法」についての日本らい学会の見解 を発表し(16)、「らい予防法」廃止についての要望書を厚生省(保健医療局長、大臣官房審議官、エイズ結核感染症課長、国立病院部運営企画課長)、総務庁長官(ハンセン病対策議員懇談会事務局長)、日本医学会長、日本弁護士連合会人権擁護委員会、ハンセン病予防対策調査検討委員会に、第68回日本らい学会総会会長 中嶋弘 名で送付した。
以上のように、1947年までは療養所充実の働きかけが主であったが、その後は、公の形での行政へ働きかけは無かった。なお、1931年制定の「癩予防法」、1953年制定の「らい予防法」に関する学会の働きの記載はなかった(8)。
本学会の小史を記載したが、ハンセン病医学(基礎、臨床、社会等)の内外の最新の情報は本学会ないし学会員が入手可能で、学術大会で発表されたり学会誌に論文が掲載発表されていた。なお、癩療養所長会議(1910年-1931年)、官公立癩療養所長及管理府県衛生課長会議(1931年-)と学会との関係を明らかにする文章は、癩療養所長会議の席上学会成立の意見があり、それが端緒となり学会が成立したという記載(7,8,17,18)の他に、癩療養所長会議録の学会誌への掲載があった。また、全国らい(ハンセン病)療養所所長連盟(1964年発足)と学会との関係を明らかにする記載は無かった。
学会としては会則に記した「目的」を達成することが重要と考え、多くの場合研究・知識の成果は学会内で討議したり論文などにまとめていた。また会員が個々に判断し、外部に対しても発表などをしていた。また癩療養所長会議、官公立癩療養所長及管理府県衛生課長会議、全国らい(ハンセン病)療養所所長連盟との関係は友好的な関係にあったものの、互いに独立した団体であった。しかし学会に対する国民の期待はハンセン病医学全体、すなわち臨床医学、基礎医学、社会医学、医療政策などに対する学会の指導的役割などと考えられた。さらに、「らい予防法」に最も関係のある学会としての法律に対する医学的な見解の開陳を期待する声もあった。それらの期待に応えられたかというと、個人としては応えたものはいるが、学会としては微々たるものであった。学会は学術交流の場との認識が強かったためである。
以上、1931年制定の「癩予防法」、1953年制定の「らい予防法」に関して学会は医学的見地から何も行動を起こさなかったことは遺憾である。
1907年(明治40年)に「癩予防ニ関スル件」(法律第11号)が公布され、これに基づいて1909年に全国で5ヵ所の公立療養所が開設され、国家の政策として隔離が実施されることとなった。学会設立は1927年で、「癩予防法」は1931年に制定された。学会員の所属は療養所関係者、大学関係者などであった。前者は隔離を是とする人が多い一方、後者は隔離に批判的な人が多かった(19)。両者は学会の内外で意見を交換しているが、互いを排除するような言動は記録されていない。両者の扱う患者の重症度、患者の置かれていた状況には差異があり、疾病観にも差異があった可能性がある(20,21)。さらに、第5回日本癩学会総会(1932年)において「臨床的治癒」の考えもあり、患者全員の隔離に異議を唱える発表もあった(22,23)。
当学会は法人でない任意の学術団体であるが、1945年までは療養所長会議録の掲載など療養所行政との境界が曖昧な点もあった。このような中で療養所病床数増加の建議書などの提出なども行われたものと考えられる。即ち、1930年代の後半から、1940年代にかけて内務省、厚生省等に療養所の充実を建議しており(9-13)、これは「癩予防法」に基づく全患者隔離の方針に沿ったものであり、学会が隔離政策に関与していた事は明白である。
また、戦後、1961年から1975年まで、評議員に厚生省の職員が任命されており、同時に藤楓協会の役員も参加している(24,25)ことから、その当時は、ハンセン病に関係する大学研究者、研究所研究者、療養所関係者、厚生省幹部、藤楓協会幹部などが一堂に会して学問の進歩を共有していたことが考えられ、さらにハンセン病全体も見据えられる陣容であった。当時は隔離を否定する国際学会の記事が掲載されており、これは学会員である厚生省の幹部も読んでおり、世界の流れを了解していたと考えられる。しかし、「らい予防法」における隔離政策等の問題には一部の学会員の学会での発表がある程度で(26)、学会として隔離政策反対の大きな流れを作ることはなかった。
総会での特別講演で社会福祉専門の教授に特別講演を依頼しているが(27)、講演内容から1970年前半では「福祉」は「らい予防法」の枠内から抜け出すことはなかったと判断される。
隔離政策は「らい予防法」の根幹の一つであるが、法律は厚生省の問題であり、「学術的」な問題ではないとの認識が学会の大きな流れであり、医学的な問題のみならず社会的問題も学会が認識していない現れである。
第8回日本癩学会会期中の1935年11月15日に官公私立癩療養所招待会が会長の佐谷有吉大阪皮膚病研究所長により行われた。その際潮理事は、自分は医学者ではなく素人ではあるがと断わった上で「先年衛生局長時に知恵をつけられ時の保健調査会に於て1万人収容計画書を樹てた。」との言辞を含む挨拶を行った(28)。翌日光田健輔が自ら療養所拡張を主張した理由を「明治31年東京市養育院医局に奉職して日々東京市の行路病者中に於ける重症の癩患者の救護に当り始末に困り、渋澤院長安達幹事当時の警察医長山根正次氏に訴へた、(中略)当時癩の死亡者は全国1年2千人を超えて、実数はこれに数倍するものであった。壮丁が癩の為に兵役免除さらるるものが6百余で千人中1人半に余り、熊本清正公、四国金比羅、身延、草津温泉の地を親しく踏むに當りてその惨状を見るに忍びなかった。」と本学会で講演した(29)。この演説後佐谷有吉会長は、「皇紀2,600年を期し収容人数を1萬人に増加するため各療養所を拡充せられんことを内務当局に陳情することを会場にはかりたるに、満場一致を以て之を決議」した(10)。同陳情書は1935年11月17日付で後藤文夫内務大臣宛に第8回日本癩学会会長佐谷有吉名で提出されたと記されている(10)。調査し得た限り光田健輔がかかる主張を学会で行ったのは以上の1編だけである。しかし、同様の文書は以後も提出されている(11-15)。1947年までは療養所病床増加が光田及び学会の方針であり、これは国の方針でもあり、学会が光田及び国の方針に追従したと認められる。
しかし増床がほぼ達成され、「らい予防法」が施行されてからは光田の隔離推進策の学会内での影響はほとんど払拭されていったと考えられる。
5. 小笠原 登の件
大谷藤郎著「らい予防法廃止の歴史」によると、1941年の第15回日本癩学会のことが「国賊扱いされた小笠原博士」の題で紹介されている(30)が、詳しい状況説明はされていない。小笠原 登の演題は「癩患者の心臓」で、光田も含めて6名が真摯に行った討論が詳細に記録されている(31)。しかし、翌日神宮良一等による「所謂佝僂病性体質論を否定す」(32)に続く、野島泰治による「癩の誤解を解く」(33)の討議に際し、座長村田正太は小笠原に対して「癩は伝染病だ」と言う通説を否定するのかと討論をもちかけ、この討議に1時間を費やした、と学会景況記(34)に詳記されており、これらも大谷による記述を裏付ける激しいやりとりがあり、小笠原も顔面を蒼白にしながら怯まなかった状況が把握出来る(34)。しかし、それらは記録で見る限り、国賊扱いとか吊るし上げではなく、この後も小笠原と療養所の医師達との学問的ないし個人的交流は続けられている。また別の総会時にも小笠原と他の会員との討論も記録されている(6)。
小笠原が京都大学皮膚科特研退職後に勤めた病院の職を失ったとき、国立療養所奄美和光園の職を斡旋されたのも療養所の医師達の努力によるものであった。小笠原が行った診療の姿勢は現代の医師憲章の倫理と矛盾せず、彼は本学会の大先輩の一人として尊敬され、その名誉は意図するまでもなく称えられている。学会が小笠原を国賊扱いしたことはない。
なお、付言すれば、当時の日本らい学会の討議は、他の学会に比類が無いほど活発であった(6,7,35)。
6. 世界のハンセン病医療との見識のずれ
世界におけるハンセン病関係の学会については逐次学会誌に内容が紹介されており、研究面では世界と対等に議論していた。しかし1945年頃までは療養所の充実と研究が主流で、1945年以後はほとんどの患者が療養所に入所し、プロミンの導入とともに療養所内での医療が主流になっていった。ところで、「らい予防法」が制定された2年後(1955年)には、ハンセン病患者の83%ほど(12,169名のうち10,057名、沖縄県を除く)がすでに隔離されていた(36)。そのために、在宅治療を主に行う大学病院を除き、ハンセン病の療養所が唯一のハンセン病治療の場であり続けた(実際には、ハンセン病治療薬は保険薬になっておらず、一般購入が不可能な仕組みになっていた。)。一方、世界的にはWHOの主導の下、発展途上国のハンセン病患者の医療が主になり、WHOからは日本でのハンセン病医療に対し国を特定せず抽象的な表現で強制法の撤廃が述べられている程度であった(37-39)。さらに日本の療養所ではプロミン及びDDSによってほとんどの患者は治療が進み、新たな治療に対する熱意などが薄れていった(40,41)。海外では新規患者対象だったのに対し、日本では再発患者や治療が長期にわたる患者が主な対象となっていったという事情もある。日本では1960年代の前半に、DDS単剤療法による再燃が問題視され(42)、特にらい腫型ハンセン病では30%ほどが、皮膚塗抹標本でのらい菌が陽性であった(43)。すなわち再発患者やDDS耐性患者、ごく少数の新規患者が医療の対象であり、治療に対する考え方も皮膚塗抹標本上のらい菌の存在(菌指数)を過大に評価し、ハンセン病の治療は容易ではなく、社会復帰も安易には進められないと言う認識であった(39,44)。当時は世界的にらい腫型ハンセン病では生涯の治療が必要と言われていた。また、日本のハンセン病治療学については科学的に提示できるものはほとんど無く(45)、初めての化学療法共同研究班の論文は1974年に発表され(46)、これも療養所が主体となった研究であった。従って、世界との考えのずれがあるとすれば、臨床面において日本では療養所内医療が中心で対象となる患者が異なっていたことが最大のずれといえる(47,48)。
1950年代からの隔離廃止を勧告する国際的な会議の見解が紹介され、全患協ニュース等にも掲載されており(49-51)、らい菌に感染しても発症は極めて稀で、治癒する病気であることは、患者や厚生省も認識していたにもかかわらず(52-56)、わが国のハンセン病対策に反映されなかった。学会はらい予防法やハンセン病対策の問題点を取りあげながら行政にそれを反映させることができず、学術団体の枠を出ることがなかった。学会に社会的責任の自覚がなかったことは、今日の時点からみれば明らかである。
7. 「らい予防法」に関する学会内の意見
らい予防法の改訂や廃止などを含めた意見は荒川 巌らによって発表や論文の形で提起されてきた(26,54-63)。また国際的な動きもその時々に会議の内容を学会誌に紹介し、世界の流れを伝えている(38-41,47,48,64)。1966年に幹事会において「改正」についての論議があり(65)、その時には「厚生省から諮問があるまで、学会としての意見はださない方がいい」、「学会が行政面につっ込んで行くのはどうかと思う、又これが学問的に必要ならば要望書を出してもいいのですが。」などの意見があり、最終的に「らい予防法改正の問題は、現在特別に要望することないが、随時研究し、その必要が生じたとき委員会でも作って行くということにします。」ということになった。当時、国立療養所課長も検討を行っており、患者は改正に賛成していた、と文面からは読みとれた。なお会員の文章からは、1966年までは「らい」行政改革に際して学会の意見は求められていないようで、今後らい予防法改正、在宅静養、外来相談などについて積極的に意見具申すべきであると、述べられている(66)。第41回日本癩学会総会(1968年)のシンポジウム「日本のらい対策の将来について」では、「らい予防法」の改正を望む声が多く上がった(67)。さらに、一般医療の中で診療が可能になることも見据えた改正も視野に入れていた(68)。しかし、厚生省の考えは(国立療養所課長、誌上発表)「入所者の停滞によってますます収容施設的要素が強まってきた」ため医療と研究の充実の方向性を示すにとどまり、法律については述べられていない(67)。
1973年、第21回日本癩学会西部地方会においてらい予防法の問題点が討論された(69)。全患協の委員や京都府衛生部職員も加わり、基本的人権、生存権、外来治療、退所規定、終生隔離、医療の進歩等について言及し、らい予防法の改正を訴えた。翌年の1974年の第23回日本癩学会東部地方会でも、世界の動きを紹介しながら隔離の廃止と一般医療の勧め、さらにらい予防法の改正を訴えている(70)。
化学療法が普及した1950年代には退所者が新患より多かった時期もあった。治癒退所の法的根拠は「療養所」の内規であると学会では説明されていた。例えば1977年、第50回日本らい学会総会において荒川 巌は「日本のらい予防法と患者及び家族の1例」を報告し、「(予防法を)一たびこの法を葬り、更めて新秩序を支える柱を立て、それに則り法を立てるべきである。」と主張している(71)。これに対する追加として、高島重孝(愛生園)は「らい療養所長連盟は、全患協中執と3年前より、此の問題を検討し、研究を継続中である。一言追加すれば、国立らい療養所は、らい予防法に基いて、創立されて以来、47年、独自の活動を続けていて、その日常生活はすべて予防法即ち法律だけによるものではないことを認識すべきであろう。」と述べている。また、1980年の第53回日本らい学会総会における荒川の同様主張に対し、高島は「荒川氏のらい予防法に関する批評はwissenschaftlich(科学的)には正しい。即ち現行の予防法は改正すべき点が多い。ただしこの法の下に運営されている所の国立らい療養所は必ずしもこの法律に従ってはおらない。(職員も患者自治会役員も共に)よって老齢化し、菌negative(陰性)のものが多くしかも後遺症重篤のものの多く患者の生活を守りかつ患者数の減少した現在、この問題(予防法並びに療養所管理理念の確立)は統一見解をもとむべく衆知をあつめる必要がある。」と述べている(72)。このように予防法廃止が遅れた理由のひとつに上記のような懸案事項が多かったことがあり、欠点を「療養所」の内規で補ってきたことにあった事が本学会に披露されている。
1982年の第55回総会では「らい予防法について」審議され、早急に改正の方向に努力する旨の了解が得られている(73)。
1992年の第65回総会では、らい予防法が非科学的、非人道的であることを学会として一般に公表すべきであるとした(74)。
1994年の第67回総会では、大谷藤郎、山田雅康(東京弁護士会)を招いて、らい予防法について討議し(75)、その後「らい予防法検討委員会」を発足させた。
「らい予防法」に最も関連のある学術団体であったが、この法律の不当性を学会としてハンセン病医学の進歩に照らして糾明したのは遅れて1995年であった。
以上「らい予防法」をめぐる学会内の動きをみると、らい予防法は医学的に正しくないことが判明し、改正すべきものであると考えていたが、法律を改正する方法が見つけられず、学会として法律改正を言う事が学術団体として良いものか否か考えあぐねていた印象がある。ハンセン病対策が所長連盟、入所者団体、厚生省の主導の下に進められ、入所者の生活保障が優先されたのに対して、学会には影響を及ぼすほどの力が無かったのが実情であろう。
8. 「らい予防法についての日本らい学会の見解」について
この見解(16)は、らい予防法をどのように廃止し、入所者の生活を保障していくかを主眼に表明された。特に学会として、らい予防法を廃止する正当性を学問的に立証する必要があった。単に廃止について厚生省に具申するのではなく、学会の見解として公にし、廃止に追い込むことに趣旨があった。らい予防法が人権をないがしろにし、医学の進歩に対して退歩したものであることを厚生省や日本弁護士連合会、マスコミ等に訴えるのも主眼であった。そのため、日本弁護士連合会人権擁護委員会にもこの趣旨を送付し、弁護士の開眼を願った。また学会は1996年の第69回総会において、法曹界に40年余関係していた学者に講演を依頼し、人権について学習する機会を持った(76)。
この見解を現在読み返すといくつかの不備はあるものの、その当時の学会の叡智を集約し、らい予防法の廃止、及び「廃止法」を成立する力になったことは明記すべきことである。
9. 療養所医療の問題点
ハンセン病療養所では医師の恒常的な不足状態にあり、専門的な知識や経験が不十分な医師がさまざまの科を担当せざるを得なかったと推測される。学会が療養所医療について検討を加えるには人権や倫理の面で問題が多く、困難と考えられる。
10. 在宅治療者、社会復帰者に対する学会の取り組み
らい予防法廃止後のハンセン病医療、とくに新規患者の治療が一般の施設で行われることを踏まえて、学会では医療問題委員会を設けて一般医療施設でのハンセン病診療の体制作りに着手した。まず診断や治療に協力可能な全国の医師をリストアップし、「ハンセン病診療協力ネットワーク」として公開し、一般医の診療を支えることとした(77)。次に、治療指針(78)と治癒判定基準(79)を作成し、印刷物やホームページで公開した。これらの資料を全国の大学の医学部に配布し、教育や診療に使用してもらうよう求めてきた。また、治療薬の保険適用の認可獲得にも尽力し、有力な化学療法剤の早期採用が実現した。現在、療養所以外で入手できない治療薬の使用について関連機関に学会から要望書を提出している(80)。
学会員は各地の啓発講座や皮膚科学会の講習会、大学での講義などに積極的に協力してきている。後遺症や合併症の治療でも一般医に協力し、あるいは一般医の協力による外来診療の充実に努めている。
11. 今後の日本ハンセン病学会
医学の発展というものは、単に基礎、臨床医学を発展させ病気の解明、治療、治癒に貢献するのみでなく、その成果を患者の福祉に反映させるべきである。すなわち全人的医療を尊重すべきことを当学会の歴史は示している。
学会では今後人権を尊重した医療、研究成果の臨床や社会への反映、ハンセン病医療内容の向上に努めるよう学会の運営に留意し、学会員に働きかけていく所存である。
最後に2002年の第75回総会(三島市)で、学会の反省と謝罪の意志の文章を記載する。
ハンセン病患者、元患者の方々へ (平成14年5月10日)
日本ハンセン病学会は、2001年の「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟判決1周年に臨み、反省と謝罪の意を表します。
この判決で指摘されているように、隔離を基本とした旧来のハンセン病対策が人権の著しい侵害をもたらしていたにも拘わらず、学会がその是正の原動力となり得なかったことを深く反省します。同時に、その間、偏見・差別・人権侵害に苦しんでこられた方々に対し、その苦痛を取り除くことができなかったことを心からお詫び申しあげます。
この反省とお詫びを原点とし、今後はこれまでの過ちを繰り返すことのないよう学会の歩みを正し、ハンセン病への偏見、差別のない社会の実現のために努めていく決意を表明します。 日本ハンセン病学会会長 江川勝士
参考文献